2009-10-17

鬱っぽい社会

まだまとめるには尚早かもしれないと思ったけど、書きたいと思ったときに書くのがブログだと思うので、いつものように中途半端になると思うけど書く。

最近鬱っぽい気分になることがあって、いや最近でもないか元々か。なんというか、鬱っぽい感じになっていることを客観的に認めることができるようになってきて、それは前向きな気分でそれ自体は良くて、このバックグラウンドはなんだろか? といろいろ思考している。
ただ、全然重症ではないと思っていて医者に診てもらう段階ではないとも思っている。こうしてブログに書けるのも重症ではないからだと思う。

まずはともあれ「他の人は普通で自分だけが鬱っぽいのだ」と思うことはやめるべきで、案外みんな口には言わないけど、今週は鬱っぽいなと感じていたり実際に過去にうつ病を経験していたりするものだと思う。案外みんなそんなもんなんだよね。

あと「鬱っぽい感じ」と「うつ病」は分けて考える。一応「うつ病」って病名だから、そこは医者が判断するから。だから鬱っぽかったら「鬱っぽい感じ」、そう気楽に言えばいいと思う。うん。

で、なぜ自分は鬱っぽい感じになってるか、改善のためのベターな手段はなにか、について誰か言ってるのをただ聞かされるのはイヤで、そこを自分で咀嚼して考えるのが好きなので、今後も考えていきたいと思う。というか考えて納得して了解する、というプロセスこそが重要だと思う。あと否定しない。自分を肯定する。しかしプライドの高い男性にはときとして難しい。「ダメな自分を肯定する」「自分を変化させることを恐れず許容する」、これ、少なからず僕も含めて、男性は結構嫌がる。ダメな自分を隠し、自分を断固として守りがち。いわゆる「プライド」「立場」。でもそんなこだわりは早々に捨てる必要がある。でも難しい。でも努力する。

「なんか鬱っぽい感じ」。個人的バックグラウンドと社会的バックグラウンドがある可能性がある。
個人的には、「個性」「主体性」「ありのままの自分」をいままで充分に表明・表現できていなかったかもしれない(とくに幼少時の親との関係の中で)。主体性の形成が不十分だった可能性。これはまだ、あまり鮮明に記憶をたどれていないし「そんな気がする」という段階。これからも思い出しながら考えて行きたいと思う。
(ヒントになった本:『「うつ」になりやすい人』/PHP新書)

社会的バックグラウンドは、ちょうど今読んでいる対談本で、五木寛之さんが「社会が、躁から鬱へと転じてきた」という趣旨をおっしゃっていて、ああなるほど、と思えたことがある。戦後から約50年かけてオリンピックや万博、高度成長のなかで社会全体が躁状態ともいえる状態がつづき、バブルを頂点としてテロや環境問題、金融危機などを通じて社会が鬱の時代へ突入した、だから心を病む人が増えているという考え方は僕にも無理なく了解できる。(IT産業は、思うに、ビョーキな人を生み、漢字の書き方を忘れさせてくれるが、社会全体を躁側に維持するだけの力は実は持ってないんじゃないかとひそかに思っている。)
(ヒントになった本:『鬱の力』/幻冬舎新書)

このところのどんよりした空気や毎日の空回りした感じ、もしあなたがそう感じているとして、それがすべてこの社会のせいだというのは正しくないけれど、ある程度は影響している可能性はある。

それから、答えはないけれど、じゃあどうしたらっていうその先については、二つに分岐するような気がしていて、いま学校に通っている若い人にとっては、この鬱々とした(鬱々としているとされる)社会がデフォルトなわけだから、とりあえずいきなり悩むということはないと思う。若い子達のあのサバサバした感じ、これが当面これからのデフォルトなわけです。

そっちじゃなくて僕がいま思考しているのはおもに自分から上の世代、30歳から上ですが、これ、気をつけないと結構ハマる気がする。だって、結構熱血な人が多いわけじゃん。一旦「鬱っぽい感じ」にはまると、「いや!もっと元気よくイケイケな社会にしなくてはいけない!いままでのように、これからもだ!」という思考になり、さらに空回ってさらに焦ってしまう恐れがある。深みにハマる。

なので多分、「いいじゃん、こんな社会で」ということなんだと思う。これも現状肯定。だってしょうがないじゃん。まあ、力抜いて、この鬱々とした社会を生きようよ。小さな喜びを、素直に喜ぼうよ。っていう許容というか、承認というか、了解。
そういう開き直りが、これから求められるんじゃないかと思うようになりました。

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